小町藤 [創作]
いつになく時間をかけ念入りにかつ濃くならないように慎重にメイクをし、昨夜のうちに用意しておいた落ち着きのある清楚系のワンピースに身を包む。
アクセは派手にならないものを。バッグも大人しめに、靴はヒールがそう高くないものと決めておいた。
鏡の中で見違えるように輝く自分に一度微笑みを作って見せてから両こぶしを握った。
「よし!」
出来栄えは上々そう思えた時、無意識のうちに私の人差指は鼻の頭をこすっていた。
それに気づいて慌ててひっこめる。幼い頃からの癖とはいえ、今日は女らしくない仕草はご法度なのだ。
ちやほやされていた若い頃はそういうのがうっとおしくて愛想笑いと当たり障りのない返事で逃げ回ってきたが、いつの間にかそのお株はすっかり後輩達に奪われ、友人に二人目の赤ん坊を産んだ事を報告されると27と言う年齢をようやく自覚した。
意識しないうちに30という節目が見え始めて居た事実に驚愕し、焦りを感じた私は婚活にいそしんでいたのだ。
今日会う見合いの相手は一流企業のそこそこのポストで、私よりも7つ年上だが趣味も多彩な上、容姿も割と良く、年齢より若く見える優しそうな人だ。バツイチである事を除けば非常に良い条件だと思う。
そんな相手が私に興味を持ってくれたというのだから相談所というのはわからないものだ。
決して失敗する訳にはいかない。是が非でも気に入ってもらい、次に繋いでいかなくては。
ハンカチ、化粧道具、携帯電話、財布、それらをもう一度小さなバッグの中に確認する。あっと、これを忘れてはいけない。
小さな頃からの守り神、高校大学両受験の時も、就職試験の時もバッグの中から私に良い結果をもたらしてくれてきた手製のしろくまのマスコット。
それを小さな内ポケットに忍ばせ私は立ち上がった。
何かアクシデントがあっても待ち合わせの時間に充分間に合うように1時間の余裕を見て家を出る。
踏み出した降ろしたての空の下はまだ昨夜の雨の香りが残っていたがすっかり磨かれた空気の中を通る陽光はいつも増して輝いていた。
駅前のターミナルでバスを降り、駅入り口の方に歩いて行く途中のことだった。
正確な年齢はわからないがすっかり白髪になった老婆が肩で息をしながら壁を背に座り込んでいた。
駅前なのでいくらか人目は引いてはいたが、誰一人傍に寄ろうとはしない。それはそうだ、触らぬ神に祟り無しだ。
私も顔を伏せて前を通り過ぎることにした。しかしああ、よせばいいのにその刹那ちらりと相手の顔を見てしまったのだ。
まっすぐに繋がる視線。その人の良さそうな顔。
そんな顔されたら放っておけないじゃない。
私は気づかれない程度に首をすくめると怖がられないように笑顔をつくって近づいて行った。
「おばあちゃん、どうしたの?」
老婆は血色も良く、身に着けているものも決して粗悪なものではなかった。
彼女は何かを言いたそうにしていたが息が上がっていてすぐ話せない状態の様でにこやかな表情と両手で気遣った私に礼を示しているようだった。
「どこか気分が悪いの?」
老婆はそれとわかる程度に品良くかぶりを振り、少し息を整えた後ようやく小さな声を絞り出した。
およそ老婆とは思えない穏やかで澄んだ声だった。
「年甲斐もなく・・・はぁはぁ・・・ 走ってしまったものだからね・・・ ご心配おかけして・・・」
そうか、具合が悪い訳ではなさそうだ。
「お嬢さん・・・ はぁはぁ、実は喫茶店を探しておりましてね・・・、なかなか見つからなくて焦ってしまって…。待ち合わせがあるのよ。もしご存知でしたら案内していただけませんか・・もちろんお礼に御馳走はさせて頂きますから。小町藤と言うお店なの。」
ああ、数年前出来たあのちょっと小洒落たオープンカフェか…、まだ入ったことはないな。遠くはないけどちょっと教えにくい所だなぁ…。
「道順なら交番が近くにあるのでそこまでお連れしますよ。」
「お巡りさんは苦手なの…、お嬢さんが連れて行ってくれると本当に助かるわ。」
時間的にはまだ余裕があるが、こんな見ず知らずの老人に関わって大丈夫なのだろうか。
長い世間話の相手にされるのはまっぴらごめんと言いたいところだが・・・こういう幸せしか知らないような笑顔を向けられてしまうと無下にできない自分がいたりする・・・。
それに、なんだか赤の他人には思えない雰囲気を彼女は持っていたんだ。
「じゃ、 じゃぁ ちょっとだけなら・・・ 先に言っておきますけど私、今日とっても大切な用があるんです。」
「そう。私もだわ。」
老婆が目をなくして笑う。
「大げさに聞こえるかもしれませんが、人生を左右するような事なので遅れる訳にはいかないんです。」
「そうね、私もなの。」
ようやく息が整ってきた老婆が立ち上がるのに手を貸すと、私は駅からいくらか離れたオープンカフェに彼女を案内して行った。
まぁ、まだ時間はある。2、30分もかかることはないでしょうし問題はないかな。
老婆は助かります助かりますと腰を低くしてお礼を言った。
相手の歩幅に合わせていつもよりゆっくり歩き始めると彼女は思い出の場所なんですよと言った。
思い出の場所なのに正確に覚えていないんだ…。なんだか歳をとると言うのは悲しいものなのかな…
こちらが聞きもしないのに彼女は穏やかに、そして楽しげな様子で世間話を始めた。
それは手入れしている花壇に花が咲いたのだとか、ナナホシテントウが可愛らしかっただとか、私がにしてみればどこが面白いのだかわからない内容の話からだったが、次第にそれは彼女の旦那さんの話になっていった。
なんでも付き合った期間はとても短かったのにすぐ結婚を決意したのだそうだ。
ろくに相手の事も知らずによく決めたものだと思ったが、私も人のことは言えないのかもしれない。
夫の事を話す彼女はいくらか若返ったように見えるほど顔がほころび、その声には思慕の念が滲みだしてた。苦労なんて何もなかったのだろう…。
「良い旦那さんに恵まれましたね。」
私がそう言うと老婆はあなたもそう思う?とさらににっこりした。
「本当にそうだわ。」
言った後さらに同じ言葉を繰り返した後、彼女はあの人でなかったらきっとここまで幸せにはならなかったでしょうね、と少しだけもの思いにふける表情を浮かべた。
「あの人ったら本当に損する性格でね?ウフフ、ばかな人だなぁって思うことは何度もありました。」
そう言って少女の様にくすくす笑った後私に目を合わせて「そこがいいのよね」とさらに笑った。
「だって、本人は損したなんて全く思っていなくて、むしろ良かった良かったなんて笑うのよ。もう可笑しくなっちゃって。いっつもそんな感じ。きっと私がついていなかったらいろんな人に騙されていたと思うわ。もしかしたら騙されたことにも気付かないかもね。ウフフ。」
ご苦労があったのですかといってみたら彼女は笑顔のままちょっとだけ首をすくめた。
「苦労だったのかしらね、でも私には苦労ではなかったのよ。だってあの人と一緒だったし、いつも彼はにこにこしていました。彼と一緒に頑張れることってね、なんだかとっても素敵なことだって思えた。ほら言うでしょう?苦境の中にあると絆が生まれるって。あれなのかしらね。ウフフ。」
苦境の中にあって絆、そんなことは良く言うけどそれは他と隔離された状況だからじゃなかろうか。とっとと見切りをつけた方がましな気がするけど。
「大切にされていたんですね。」
「そうね、ありがたいことね。」
「いえ、あなたがですよ。」
「ああ。ウフフ!そうなのかしら。ああ、そうね、そうだわ。もちろん大切には思っていたけれど。ああ、そうね、私も彼を大切にしていたのね。」
なんて間抜けな事をこの人は言っているのだろう、でも頬を染めて笑っている様子を見ているとなんだかそれがうらやましく思えた。自分が愛している事さえうっかりするほど相手に愛されている実感があったということなのかもしれない。
そうか、この人はきっと理想的な結婚をしたのだろう。
彼女を見ていると結婚しなくてはという焦りが若干馬鹿らしく思えて、なんだか自分が見ているベクトルがどこかちぐはぐで色あせて見えた。
とは言え、現実問題いつまでも白馬の王子を待っている訳にはいかない。そもそも誰にでも王子が居るとは限らないし、誰でも彼女の様な最高の相手を見つけられるとは限らないんだ。年齢が上がればそれはなおさらだ…。
私は少しだけ悲しくなったがいわゆる女の幸せというものをまるまる手放す気はない。
「私も早く結婚したいです…。」
漏らした後顔が熱くなった。ついとは言えなんてみっともない事を漏らしてしまったのだろう。
「そう、お幸せにね。」
「相手はまだいないんですよ。」
私は自虐的に言った。
「だから今日お見合いするんです。」
彼女はまた小さく笑った。
「お見合いなんてしなくても旦那さまには出会えますよ。」
それはうまい事恋愛結婚に成功した人の理屈だ。
私は相手にわからないように笑顔のまま小さく唇をかんだ。
「誰よりも素敵な相手にめぐり合うわよ。」
老婆はもう一度笑った。
なんだか無責任な物言いに私はちょっとだけ苛ついた。
これからお見合いに向かおうって言う不安からもあったが、勝利宣言をされたようでなんだか嫌だったのだ。
よく考えたら道案内をしてあげているのに何十年分ものおのろけを聞かされている訳なのだ。
その後も目的の場所に着くまで私はえんえんと『結婚生活の素晴らしさ』を聞かされる羽目になった。
それはある意味結婚の苦労話をされるより堪えるものだった。
それは先に結婚した友人達が時折漏らしてくる愚痴とはかけ離れたあまりにも現実離れした世界だったからだ。
本当にこの人は旦那さんが居るのだろうかとさえ思えてきた頃、フェンスやプランターから薄紫の沢山の小さな花が房の様に彩るお店が見えてきた。目的の『小町藤』である。
「ああ、あそこです。」
「ほんと、ありがとうお嬢さん。お約束通りごちそうさせてね。」
「いえ、私は用がありますからこれで。」
私は一刻も早くこの『届きそうもない理想』から逃げ出したかった。
「あら、約束は果たさせてくださいな。お願い。そうね、5分だけでもいいのでこの年寄りに付き合ってくださいな。もしかしたらお見合いに有利なアドバイスもできるかもしれないでしょう?待ち人が来るまでとは言わないわ、寂しいお婆ちゃんに少しだけ付き合って頂戴な。」
先程はお見合いなんてする必要ないと言っていたくせに…。とはいえこうすがられては無下にもできなくて、私は渋々五分だけという条件で納得した。
たまたま空いていた一番道沿いの店外の席に彼女は座るとウェイトレスに注文を告げた。
私も体面に座り同じものをと告げた。
わざと時間を気にしていますよと言う風に腕時計を見ておく…。
彼女はありがとうと心地よい笑顔をまた作って私の顔を楽しげに見つめた。そういう顔を向けられるとわざといそいそした態度をとっているのに引け目を感じてしまう。けれど私には急いでいる正当な理由があるのだから気圧されることはないはずだ…。もっとも相手はそのつもりはない訳だが。
私は少し居心地が悪くなって通りに目をやった。
本通りではないとは言え車道にそこそこ大きな水たまりがあって、それが鏡のようにキラキラとした青空を映していた。
確かに少し奥まったところではあるがこんな水たまりができるほど舗装工事の優先順位が低い道なのだろうか。駅までそう遠くないのに。そんな事を考えた。
「手が届きそうね。」
老婆が言った。
「え?」
私が振りかえると老婆が目をなくして言った。
「そう、綺麗だと思うわ。水面に映る青空。昔は私はね?水たまりは水たまりだった。でもね、ある人がこう言ったのよ。空がわざわざ近くに降りてきてくれたようねって。ウフフ。私ったら何その都合のいい解釈って思ったわ。でもね?その方が楽しいわねとも思った。かわいいお婆さんだったわ。」
「確かに都合がいいですね。ここから見たら確かに空が映りますけど、近くに行けばただの泥水ですよ。」
「そうね、ウフフ、こっちが行くんじゃなくて寄ってきてくれたら良いのにね。」
「なんか他力本願ですね。」
「人事を尽くしてって方よ。」
注文の品がなかなか届かない。飲み終えてしまえば立ち去る理由もできるのに。
「さて、約束だもの、アドバイスしますよ?どんな事が聞きたいのかしら。」
彼女が言った。
「ああ、お見合いの… そんなにお見合いしたことあるんですか?」
良い返事をたくさんもらってきて断った経験がいっぱいあると言う事なのだろうか。
「いいえ、一度も。」
言葉が続かなかった。
「でも大丈夫、ちゃんと結婚できたもの、どういうお話をすればいいのかくらいわかると思うわ。」
なんだこの人は…。全く当てになる気がしない。
「じゃ、じゃぁ… 最初はどんな事を話せばいいのでしょうか。」
「そうね。」
彼女はにこりと笑った。
「取り繕ったりしないでありのままを出すのがいいと思うわ。」
何を話せばいいのか聞いたのに態度について?
「きっとね?何を言っていいかわからなくてとても混乱して、あなたがとりたくない態度に出てしまう事もあると思うの。でもきっとそれがあなたなのだから、それを隠す必要はないわ。」
十代の少女じゃないのだからお見合いになったからと言ってそれほど追い詰めらるほど初ではない。彼女くらい年上から見たらアラサ―も乙女に見えるのだろうか。
「それは大丈夫だと思いますけど…。」
「そうね、でも人間って思ってもみない時に取り乱すものだもの。」
「大丈夫です。そんな子供じゃありません。」
「あらあら、私は取り乱してもいいと言ったのよ?」
老婆はまたくすくす笑った。とんでもない話だ。お見合いの場で取りみだすだなんて。もし私が人生の伴侶を選ぶ場にあって相手がいきなり大声を上げ出したり泣き崩れたらどう考えるだろうか。
「じゃぁ、取り乱したとして、相手はどう思うでしょう。」
「困るわね。困って、あなたを放っておけなくなるかも。」
どんなお人よしだ!
私はこの老婆のアドバイスはあてにならない事を悟った。
「あなたはとても結婚したいと思っているのね。」
「言いにくい事、と言うか言われたくない事ズバリ言いますね…。」
「ああ、ごめんなさい。そういうつもりではないのよ。本当に。ただ何って言うのかしら、うまく言えないけど…」
上から目線?なんでここへ来て説教をされなくてはならないのだろう。
「あなたはね?あなたが思ってもみないほど、そう、思ってもみないほどよ、愛される資質を持っているのよ。」
出会って間もない人が言う台詞ではない。
「つまりそういう事。良い所を見せようとしないで見せたくない所を見せて良いと思うわ。結婚てそういうものでしょう?仮面をかぶって取り繕って、そんなのよそよそしいったらありゃしません。身内になるって事は、みっともない所を受け入れてもらうことでもあるんじゃないかしら。」
だめだ、やはりこの人のアドバイスはあてにはならない。
「でもそう言うのって、ある程度信頼関係が出来上がってからするものではありませんか?初対面でいきなり、そうですね、例えば肘をついてあぐらをかいて座ったりしたら悪い印象しか与えないと思いますけど。そうなったらお見合いどころではないと思います。」
彼女はまたくすくす笑った。
「そうね、でもそれは悪い所を見せたのではなくて横柄な態度をとっただけだと思うわ。あなたがそうしたいのであったのならそれはその態度で良いと思うけれど、そうしたい訳でもないのに意図的に良くない態度をとる必要はないわね。そう言うことではないのよ。」
たぶん私の眉はいくらかつり上がっていたんだと思う。
「では例えばですが、私がとてもおしゃべりだったとして、自分ばかり延々としゃべり続けて相手の話を聞こうともしなかったらどうですか?休日に捕まえた昆虫について熱く語り始めたら?そんな事をしたらお互いに理解し合う前に拒絶されますよ。」
彼女はまだにこにこしていた。
「まぁ、一般的にはね。」
そうして一息ついた後こう続けた。
「例えばご趣味はと聞かれて、お料理とかお裁縫ですと言えばおおかたの男性にうけは良いでしょうね。あなたの言うように昆虫採集に熱意を持っている事を聞いたらもしかしたら距離を置きたがる人も居ることでしょう。おしゃべりな人を苦手とする人も確かにいるわね。でも…」
たぶんそれは意図的なのだろう、視線を私から通りにはずして静かに言った。
「もしお話を聞くのが好きな方だったら、あなたの楽しげに話す様に喜びを感じるかもしれない。昆虫が好きな男性だったら目を輝かせてあなたの成果に喰いつくでしょうね。あなたがするお見合いと言うのはその先にあるかもしれない結婚を垣間見せるものであるのよ。おしゃべりが嫌いな男性だったらおしゃべりな女性とは一緒に居るべきではないと思うわ。それはきっとお互いが無理をして、結婚の意味をかき消してしまう。虫が苦手な男性だった昆虫採集を許してくれないかもしれないわ。あなたも一緒になった後お相手が猫を被っていただけだったと発覚なんて望まないでしょう?」
私は頬が紅潮しているのを自覚した。
「確かにそうかもしれません、でもそれは理想論ですよ。全く同じ価値観の人なんていません。違う人間がお互いに寄り添おうとすり合わせて行くのも結婚なんじゃありませんか?」
相手はすぐには答えを返さず、ほんの少しの間黙っていた。
それは、自分が切り出すタイミングをはかったと言うよりも、私がいくらか落ち着き、彼女の話に聞く耳を持つのを待ったようにも感じた。
「そうね、あなたの言うことは正しいわ。けど、もともとあまりにも反りが合わないものを無理にすり合わせるのもどうかとも思うの。あくまでちょっとずつ譲歩した結果それ以上の喜びが得られる場合の話だわね。」
そこで彼女は再びついとこちらに向いた。
その眼差しはこれまでの中で最も真っ直ぐな瞳で私と視線を合わせた。
「私はね、この人が良いと思った人と結ばれました。この人で良いと思った人ではなくね。それは私にとってとても幸運だった事なのかもしれなくても。」
それは理想論だ。この人がたまたまそうだっただけだ。
「だから私があなたにできるいちばん良いアドバイスは、出会いを疑わない事。あなたでいる事。」
私はしばらく言葉が出てこなかった。
言いたい事が見つからなかったからではない。反論しようとする自分と、その言葉を信じたい自分がせめぎ合っていたのかもしれない。
運命の出会いなんてあるのだろうか。そんなものがあるのならどうして添い遂げられない人がいると言うのだ。
それに、若い頃ならいざ知らず、この歳になってそうそうチャンスなんてあるものか。小さなきっかけも逃す訳にはいかないのだ。
彼女は再び表情をふわりと和らげた。
「大丈夫。会いますよ。必ず。」
まるで心中を読みとったかのような言葉だ。
そのせいで出かかった言葉が再び呑み込まれてしまう。
「ヒントだってたくさん用意されますからね。」
彼女はそう笑ったが意味が全く分からなかった。
と、優しげな香りを運びながら、やおらウェイトレスが注文したものを運んできた。
私たちは目の前に置かれる飲み物に目を落とし、そしてほぼ同時に再び視線があった。
なんだろう、この確信した様な、安心したような眼差しは。
「さぁ、台無しにならないうちに頂きましょう。連れて来てくださってとても助かりましたわ。ありがとうお嬢さん。」
「いえ、…」
それしか言えない…。
眼前のハーブティーから立ち上るあたたかい香りも相まって私は昂っていた事を少し恥じた。
そうだ、彼女は何も悪い事は言っていない。ただ私にお礼をしようとアドバイスをくれただけで、そこには浮世離れしていようと確かな誠意はあったのだ。
折角のお茶なのだ、彼女の感謝の気持ちなのだ。ちゃんと味わって頂こう。
ほっとする味。
ハーブに詳しくない私にはなんのお茶なのかはさっぱりだが、角の取れた酸味とそれをまるまる包み込む芳醇な甘み、すっと鼻に抜ける香りは清涼感がありながらそれでいてどういう訳かぬくもりを感じさせる。喉を通れば体が内側から温められてゆくのを感じた。
口にした事のない味に一度カップをみた後、再び体面に座る相手に視線をやると彼女は通りの遠くを眺めていた。
そう言えば人を待っていると言っていたな。どんな人なんだろう。
そんな事を思った時、彼女はやや瞳を開き、口角をそれとわかるようにあげた。
来たのだ。
そう思った私は彼女の視線の先を追った。
サラリーマン?
スーツ姿でちょっと背の高い男性がなんだかよれよれになって走ってくる。
肩で息をしているのがここからも見えるのでかなりの距離を走ってきたに違いない。どうやら向こうもこちらを見つけた様でぱっと表情を輝かせさらに加速した。
「遅刻・・・ですか?」
彼の急ぎように思わずもれてしまった。
「いいえ、間に合ったわ。」
彼女はにっこりしながら満足げに人差し指で鼻の頭をこすった。
次の瞬間おばあちゃん!と彼の声がすぐ近くで響いた。
その声に彼女はさっきはどうもと微笑んだ。
「よかった~おばあちゃん。やーっとみつけた・・・」
肩で息を弾ませつつ彼はやや大きめの声でそう漏らした。
「喫茶店探しているって言ってたでしょ?すごく急いでいるって。ごめんね、さっきは~駅の方向教えるしかできなくて。」
「いいんですよ。飛びだした猫は大丈夫だった?」
「なんとか獣医に連れて行きましたよ。大した怪我じゃないって。それよりほら、と~っても大事にしているって言ってたお守り!おとしたでしょ!」
男性は内ポケットから熊のマスコットをとりだした。
「あらあら!気づかなかったわ!あなたに見せた時かしら… これを届けに?」
彼は荒い息のまま笑った。
「だって、大事なものだって言ってましたでしょ~?急いでいるって言ってたし、駅の近所の喫茶店行くってことは覚えていたんだけど、店の名前がわからなくて、この界隈探しまわっちゃって、遅くなってすみませんでしたね。」
「まぁまぁ、それはそれはありがとうございました。」
私はそのやり取りに違和感しか感じえなかった。だってどう見てもこの二人は、と、そう考えていた刹那、男性は私の隣に矢の如く移動し威嚇するかのように両腕を広げた。
思わず両手で頭を隠すと彼の向う側に大きな影が横切った。
派手な水音。
呆然とする私。
両腕の隙間から覗いてみると男性はけらけらと笑っていた。
「あ、あの…」
「大丈夫ですか?ああ、平気そうだ。いやぁ良かった。」
髪から滴る滴を掃いながら、彼は自分の姿を確認していた。
「やぁ~ 濡れちまったなぁ。」
「ご、ごめんなさい!」
私は訳も分からず謝りながら取り出したハンカチで彼の体をぬぐおうとした。
「ああっと!お嬢さん、いいですいいです!そんなきちっとした格好をしていらっしゃるんだ。結婚式かなんかでしょ?汚れたらいけない。」
「だって、あなたは私をかばって。」
大型トラックがかなりの速度でさしかかって来た事にいち早く気付いた彼が、先ほど青空を映していた水たまりを派手に跳ねあげる事を察してとっさにかばってくれたのだ。
「どうせひっかけられるんならね、二人いっぺんより一人で済めばこしたことがないでしょう。」
心地よい笑い方だった。けど、なんでこんな目にあわされて笑っているんだろう。
その時私は今日がどんな日であったのかをふいに思い出した。
テーブルの上に置いておいた時計を取り上げる。しまった!予定していた時間をかなりオーバーしてしまった!
ここから駅へ急いですぐ電車があったとしてもギリギリ間に合うかどうか。
「あ、あの!ありがとうございました!私は急い…」
彼の向うに幌をかけた大型のトレーラーが勢いよく曲がって行った・・・。
再び跳ね上がる泥水の飛沫。
さらにコーナーリングの遠心力で幌にたまっていた大量の水が弾き飛ばされ、それが滝のように私たちに容赦なく降り注いだ・・・。
誰も反応できなかった。
不快な排ガスの臭いと、嘲笑するような去りゆくエンジン音、その中でみなが声の出し方を忘れてしまったかの様に黙って突っ立っていた。
私のきれいに整えてきた髪は濡らした猫のようにボリュームを失ってみじめにべっとりと張り付き、ワンピースは泥にまみれて大小の奇妙なまだら模様をつけられ悪趣味なピエロの様になっていた。
全身から滴を垂らしながら、私は茫然と立ち尽くしていた。
先に我に返ったのは彼の方だった。
うっわ―と言いながら彼は私を前にどうしたものかと不思議な動きをしていたが、ハッと気付いたかのように大きなハンカチを取り出した。
しかし、私の体に触れるのがまずいと思った様でそれを持ったままあたふたするばかりだった。
ああ、そうか、私は今、絶対間に合わない状況になったのか、そう気付いた時小さく体が震えてきた。
「ああ!寒い?寒いね!あ、頭だけでも、髪だけでも拭いておきましょう!」
彼があたふたしながら私の髪や頭を拭き始めた。
私は情けなくなって喉の奥がじわじわ痛くなってくるのを感じた。
やっとつかんだチャンスだったのに、今日の為に色々用意して、相手の気に入りそうな事を色々調べたりして、なのにちょっと親切な気持ちを出してしまったばっかりにこんな目にあわされて台無しになったのだ。
ここ数年、人前では見せないようにしてきたのに目頭が熱くなって眦から悔しさが滴となっていくつかこぼれた。
「ああっ!」
彼はそれに敏感に反応して、よせばいいのに私の顔を慌ててぬぐった。
私の涙が止まらないものだから何度も何度もぬぐった。
そして、はっと驚く表情をした。
それは何が起こったのか私にははっきりわかった。
はっきりわかってもうこらえきれなくなった。
私は慎重さを重ねたメイクをすっかり拭われた顔のまま子供のように泣いた。
落胆の余り何も抵抗する事はできなくなっていた。
その時、意外な言葉を聞いた。
「こんな美人だったのか… 」
え?
「ああ… 君は… なんて美しいんだ… 」
馬鹿にしているのだろうか。
「ああ、ごめん!だって、その… こんな綺麗な人見たことなくて… つい。 あの、なんでおかめみたいな化粧していたんですか・・・?もったいない。」
おかめ・・・?
おかめに見えていたの?あんなにきっちり品良く仕上げたのに…。
あんなに気合を入れたのよ?!
「あ、あ、あの… すみません!ああ 乱暴にしちゃって!」
何よ急に態度変えちゃって…。
笑いがこみあげてきた。
「あ、えっと… その… 服買ってきます!あ、じゃなくて!銭湯!銭湯探すんで!ああ!服も買ってきますけど!」
なんだろうこの人は、自分だって泥だらけの癖に、私が綺麗?あんなに決めてた時はそんな事言わなかったくせに、台無しになった途端なんでそんなんに真っ赤になっているのよ。
あたふたしながらなんとか私を慰められないだろうかと必死に知恵を絞る姿が何ともいじらしい・・・。
拭うのが逆効果だと判断したようで彼なりのなんとももどかしい不器用な慰めをいっぱいかけてくる。
そんな姿になぜか私は胸を暖められて少し自分の身を抱いた。
彼はなぜか逆効果だとも考えずにずぶぬれの自分のスーツを私にかけて通りでタクシーを呼びはじめる。
泥まみれで水浸しで。
ああ言うのを水もしたたる… とは言わないわよね。
そう言えばさっき老婆が言ったことで気にかかった言葉があったんだ。
『会いますよ』と彼女は言ったっけ?お見合いに行く事を知っていながら『会いますよ?』それっておかしくない?
ああ…
そうか、私は間に合ったのだ。
共通テーマ:趣味・カルチャー
なんて気持ちの良い余韻の残るお話でしょうか。
現実の喧騒と焦燥から
ふと心の奥底の忘れていた「大切なもの」に気づかされます。
奇跡的な出会い、過去の愛・・
伯爵夫人の名にちなんだ、このお店でないといけない出会いなのですね^^
そしていつの間にかフェイドアウトした老婦人。
彼女もやはり若いころにこの場所で老婦人と話しているのですよね。
でもお店は最近できたオープンカフェということは
その場所そのものと店名でこの奇跡の魔法が起きるのかなと考えたりw
老婦人はこの役目を終えたら、
また自分の大切な場所にもどるのかな?
その大切な人は、まだ老婦人のそばにいるのかな?
そんなことを考えるのもまた、楽しい余韻が続きます。
ステキなお話、いつもありがとうございます!
こんな素晴らしいお話を拝見している間の至福な時もまた、
出会いの奇跡かな^^
by takehiko (2017-01-09 02:30)
takehikoさんいつも読んでくださってありがとうございます。
書いても反応がないとへこみますからね・・・。
『小町藤』についてお調べになった模様・・・。
だとするなら花ことばも・・・?
by xephon (2017-01-09 22:50)